続いて、オンライン署名の第2弾。
1987年の韓国民主化運動が国内の市民運動と外圧(ソウルオリンピック)の連携で成し遂げられたように、日本の司法の再建も国内の市民運動とと外圧との連携を通じて成し遂げようとするもの、それが「個人通報制度」実現への署名。
これも少々長くて申し訳ありません。が、これも我々市民が主権者であるのかどうかが根本から問われている問題。なので、時間がかかっても結構です。沈思黙考、熟読玩味の上で賛同できる方は「参加」を。
その2:もし最高裁が主権者との「対話」を拒否し続けるなら、そのときの私たちの合言葉は「最高裁がある」ではなく「個人通報制度がある」。
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1、もうひとつの冤罪事件
今年6月に提出したゆうちょ裁判の上告受理申立て理由書は、私にとって、これまでの最高の出来だと思えた書面だった(その理由>こちら)。だから、昨日の最高裁からのペラ1枚の通知(>こちら)を見て、最高裁はこんな明々白々の誤判(高裁判決)すら見抜けないほどその目は節穴なのか、これでは市民は救われないと思い知らされた。そのとき、映画「それでもボクはやっていない」の監督周防正行が、この映画の制作中に語った次の言葉が思い出された。
僕は取材を始めて半年ぐらいたった時に、痴漢冤罪とか他のいろんな冤罪があるけれど、誰かに「何がいけないと思います?」と聞かれたら、「あ、裁判所だ」って思ったわけですよ。それはきちんと取材してそう思ったんだから、そのことは伝えなければいけない。裁判所はひどい。‥‥多分、いまの多くの人は、「十人の真犯人を逃がすくらいなら、一人ぐらい間違って有罪にしてもいいんじゃないか」って思ってるんじゃないか‥‥僕はそういう気がして、そういう社会的な雰囲気を感じているから裁判官も、平気で「判らないけど、ま、有罪にしとけ」って感じになるんじゃないのか。そんな気がしてならないんです。
これがもし刑事事件なら、当然、再審手続に移る事件だった。しかし、民事事件にはそのような手続は保障されていない。しかし、誤判であり、冤罪であるならば、民事事件でもその濡れ衣を晴らす途があっていいのではないか。20年前にも同様の民事冤罪事件に遭遇した時、この思いを実感し、次の文を書いた。
民事冤罪事件 それでもボクはコピーやっていない--模写裁判サイト--
2、民事冤罪事件を救済する個人通報制度
しかし、当時、この思いをカタチにするやり方を知らなかった。その後、そのカタチがあることを知った。それが民事冤罪を国際的に救済する制度、個人通報制度(以下はアムネスティの解説による)。
個人通報制度とは、
人権を国際的に保障する国際人権法、それを具体化する手続のひとつ。
それは、人権条約に認められた権利を侵害された個人が、各人権条約の条約機関に直接訴え、国際機関で自分自身が受けた人権侵害の救済を求めることができる制度。
人権侵害を受けた個人は、その国において利用できる国内的な救済措置を尽くした後(日本の民事事件なら最高裁判決)であれば誰でも通報できる。その通報が受理され、審議された後に条約機関はその通報に対する見解を出す。見解には拘束力はないけれど、国際・国内の世論を高めることで国内法や運用の改正を図り、人権侵害の救済・是正を目指すことができる。
もしこれが使えれば、今回、憲法21条が保障する「結社の自由」の侵害事件に対して最高裁が誤判をおかしたとして、自由権規約(正式名称:市民的及び政治的権利に関する国際規約)の自由権規約委員会に、救済を求めて通報することができる。
この制度の活用の重要性を、今回の誤判を経験し、またしても改めて痛感している。
ただし、これが使えるためには、この制度を日本政府が批准する必要がある。しかし、日本政府は各人権条約についてひとつも批准していない。このような国は、世界ではG7サミット参加国において日本だけ。OECD(経済協力開発機構)加盟37か国において日本とイスラエルだけ。この意味で日本は人権の最貧民国かつ世界に名だたる人権鎖国。そして、この汚名がまかり通っている最大の原因は主権者であるはずの当の日本市民がこの恥ずかしい事実を知らないからだ。知って行動を起こせば、日本は人権の最貧民国・人権鎖国から抜け出すことができる。そのカギを握っているのは主権者である私たち日本の市民(※)。この真理をまたしても改めて噛み締めている。
今回の最高裁がこのようなていたらくだとしたら、一事が万事、ほかにも沢山、これと同じような民事冤罪事件を経験させられている市民が沢山いるのではないか。世界の常識である個人通報制度を、今なお鎖国を堅持する日本の非常識な司法制度に吹き込むことにより、民事冤罪をめぐる環境はがらりと変わる。それは主権者である私たち市民の手にかかっている。
1951年に起きた「八海事件」を映画化した「真昼の暗黒」のラストシーンで、被告人は獄中から「まだ最高裁がある!」と叫んだ。75年後の私たちの合言葉は鎖国にしがみつく「最高裁がある」ではなく、最高裁を鎖国から解き放ち、裁判所が結論を「証明する責任」を果すという裁判所本来の使命を実行するように正しい緊張関係をもたらす「個人通報制度がある」である。
その正常化を可能にするのもまた主権者である私たち市民である。だから、これもまた私たち市民の出番である。それがーー世界の常識である個人通報制度を日本にも導入することを求める市民の声をカタチで示すこと。そのために、以下の呼びかけに署名することで応答して欲しい。
もし最高裁が主権者との「対話」を拒否し続けるなら、民事冤罪事件の濡れ衣を晴らす私たちの合言葉は「最高裁がある」ではなく「個人通報制度がある」。
(※)市民の声が個人通報制度を実現することを訴えた日弁連のパンフ>こちら
2025年2月の山形県弁護士会の個人通報精度の早期導入を求める決議
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