9月24日に言い渡された判決の報告はこちらに書きました(判決全文>こちら)。
以下は、そこに書き切れなかった判決の問題点の補足2点です。
1、我慢しなさい
判決は、最後で、私たちに対し、こう慰めの言葉をかけた。
「振替口座開設拒否によって一定の不便さや不快感を覚えることは理解できないわけでもない」(9頁11行目~)
しかし、そのあと、こう続けて、振替口座開設拒否は我慢しなさいと屈従を求めた。
「原告の構成員個人名義での被告の口座開設あるいは他の金融機関での口座開設により対応することも不可能とはいえない」だから、振替口座開設拒否は違法ではない(同頁13行目~)
これは言ってみれば、或る企業が「契約自由の原則」を盾にとって、気に入らない労働者を解雇したとき、「解雇によって一定の不便さや不快感を覚えることは理解できないわけでもない。しかし、あなたの家族は解雇されていないんだから、あるいは他の企業に求職して働くことで対応することも不可能とはいえない」のだから、解雇は我慢しなさい、これと同じロジックだ。
私たちは自分が決定して選んだ金融機関の口座の開設を望んでいるのであって、どうしてその自己決定が尊重されないで、理由も訳も告げられず、私たちの弁明の機会も与えられず、一方的に、その自己決定を奪われなければならないのか。それが個人の尊厳に照らして根本的に我慢ならない。
そして、この自己決定の決定的な重要性について、この判決は爪の垢も分かっていない。このような非人権的な人は「人権の最後の砦」にいる資格がないのではないか。
2、 原告がゆうちょ銀行の審査基準に該当しないかどうか、判断しなくてもよい
聞きずてならなかったのが、判決が、私たち市民団体が権利能力なき社団としての組織を備えている(その結果、この裁判の原告の資格を持つとか銀行の口座開設が認められるとか法人とほぼ同様の資格が与えられる)と認定しながら(5~6頁)、にもかかわらず、ゆうちょ銀行は、権利能力なき社団に即した独自の審査基準を原告が満たしていなかったというゆうちょ銀行の主張を証明しなくてもよいとしたことです。
しかも、 判決は、原告がこの審査基準を満たしていなかったその証明をゆうちょ銀行がしなくてもよいという理由についても、一言も述べなかったのです。
つまり、原告がこの審査基準を満たしていなかったかどうかについて、私たち原告にその証明の責任を課して、原告がそれを証明できなかったんだから、原告がこの審査基準を満たしていなかったことになると認定したのです。
私たちは、裁判の前からも、また裁判の中でも、ゆうちょ銀行に対し、一体どういう審査基準で私たちの団体が拒否されたのか、それを示して欲しい、そしたら、私たちはそれが濡れ衣であることを堂々と主張・立証してみせると言いました。
しかし、ゆうちょ銀行はそれに応答せず、さらに、判決も、ゆうちょ銀行はそれに応答しなくてもよいとお墨付きを与えました。その結果、私たちは裁判前から、裁判の中でも、濡れ衣であることを証明する機会を与えられないまま、敗訴させられたのです。
言ってみれば、私たちはゆうちょから「問題児である」と判定された。その判定にまったく承服できなかったから、問題児と判定した理由を具体的に示して欲しい、そしたら、身の潔白を(場合によっては、ゆうちょが考える「問題児」とは何を指すのか、その正体を)明らかにする積りだった。しかし、判決はそのような身の潔白を晴らす機会を与えなかったのです。これくらいひどいレッテル貼りはない。ゆうちょ銀行がもともと所属していた行政庁ですら、市民に不利益な処分を下すときには、あらかじめ審査基準を公開し、不利益処分を下した理由を市民に示し、なおかつ市民のリアリングと弁明の機会を与え、「行政運営の公正と透明性の確保」と「国民の権利利益の保護」を図っているのに、民間にくだったゆうちょ銀行にも、行政庁と同じ国会機関である裁判所にも「行政運営の公正と透明性の確保」と「国民の権利利益の保護」のカケラもない。
つまり、ゆうちょ銀行がたとえどんないい加減な審査基準を設定しようが、また、その審査基準をたとえどんないい加減に原告に当てはめようが、裁判でそのようなことは一切問われることなく、「原告は審査基準を満たしていなかった」というゆうちょ銀行の言い分とおり、判決が認定してくれることになったのです。 これは中世の「暗黒裁判」の再現です。
3、結論
私たちはどのような人権侵害の時代にいるのか。その正体をまざまざと見せつけてくれたこと、それがこの判決の最大の功績です。
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