2025年9月30日火曜日

【お知らせ】6回の審理で主張した原告の法律問題に一言も応答せず、被告ゆうちょ銀行も想定しなかった徹底した隷属を市民に課した判決が言い渡されました(25.10.1)

7月9日の報告でお知らせした通り、6回の審理を経て、去る9月24日、判決の言い渡しがありました。
結果は原告の全面敗訴(請求の棄却)。
理由付けは以下の判決文の5頁以下に書かれています。
           判決全文>こちら

1、最大の論点
最大の論点は、ゆうちょ銀行が私たち団体の郵便振替の口座開設の申込みを正当な理由なく拒否できるか(拒否しても違法ではないか)でした。
これに対し、ゆうちょ銀行は裁判の中で、「任意団体である原告がゆうちょ銀行が設定した社団に関する審査基準を満たしていないから拒否したので、自分たちの拒否には正当な理由がある」と主張しました。
しかし、判決は、原告がゆうちょ銀行の審査基準を満たしているかどうかなぞ問題にする必要すらない、要するに「ゆうちょ銀行は契約自由の原則に基づいて、正当な理由の有無を問わず、好きなように拒否していいんだ」と判断しました(7頁16~20行目)。

これはゆうちょ銀行すら想定していなかった「あっと驚く為五郎」判決です。なぜなら、ゆうちょ銀行はここ数年来、市民運動を行ってきた「任意団体(法人になっていない市民団体)」にターゲットを絞って、彼らの口座開設申込みを大量に拒否してきた(2023年度だけで4000件>その詳細)のに対し、この判決によれば、このような口座開設申込みの拒否は別に「任意団体」に限らない、およそ全ての市民と法人の口座開設申込みに対しても、ゆうちょ銀行は自分の判断で好きなように拒否して構わないというやり方に道を開いたからです。その結果、市民運動を行っているすべての市民の個人やNPOや一般社団法人の団体からの口座開設申込みに対しても、ゆうちょ銀行は好きなように拒否できることになったからです。ゆうちょ銀行すら想定していなかった市民運動に対する徹底した隷属の道が思いがけなく、ここで示されたのです。

2、意味不明かつ審理なしの新たな判断基準
しかし、これだけではさすがに時代錯誤(アナクロニズム)すぎると裁判所も思ったのでしょう。慌てて、そのあとに続けて、盲腸みたいに以下の付け足しを書き、
社会通念上許容し難い不当な動機でこれを拒否した場合などの特別な事情がある場合」に限って違法となる(8頁8行目)
その上で、本裁判の審理の中で「かかる特別の事情を認める」に足りる証拠はない(厳密には、「かかる特別の事情」は原告によって証明されなかった)と判断しました(同頁10行目)

そもそも判決は「理由」を示してなんぼの世界です。しかし、この点について、なにゆえ、このような特別な事情がある場合に限ってだけ開設拒否が違法となるのか、判決はその根拠や理由を全く示さなかったばかりか、6回の期日の中でも、裁判所から、このような判断枠組みについて私たちからの主張や立証を一切させませんでした。
つまり、判決は1で、ゆうちょ銀行には契約の自由の原則があるのだから、自由に口座開設を拒否してよいとしながら、他方で、どうして、上記の特別な事情がある場合に限ってその自由が制限されるのか、その理由を判決で示さなかった。
そればかりか、そのような制限の枠組みが果して適切なのか、そしてその枠組みの主張・立証責任を当事者のどちらが負うのか(なぜなら、私たちは自分たちがどうして開設拒否されたのか、その事情を全く説明されないまま来たので、そもそも立証する手がかりはゼロなのに、判決はそのことを重々承知の上で、立証する責任を私たち原告に負わせたのです。つまり、判決はそもそも私たちにとって立証不可能な責任を私たちに課したのです)、また仮にそのような制限の枠組みが適切だとしても、それが本件に適用した場合、そのような制限に該当するのかどうかについて、裁判所は6回の期日(審理)の中で一度も話題にせず、その結果、私たちにはこれについて主張も立証の機会すら一度も与えられなかったのです。
その意味で、この論点について、まさに「闇討ち」「不意打ち」「残忍酷薄」の判決です。 

現在、同じ東京地裁で、311甲状腺がん裁判の審理が行なわれています。その中では、裁判長はこの事件をどのような判断枠組みによって裁くのか、その法律判断の枠組みを双方に示して、その判断枠組みに沿って、原告と被告に主張と立証の活動を尽くさせるように訴訟指揮をとっています。これが本来の裁判の姿です。このような手続を踏まずに、判決で裁判所が採用した判断枠組みについて、当事者の一方(本件では私たち原告)に必要な主張と立証をさせないということは憲法が市民に保障する「裁判を受ける権利」(32条)の侵害です。
それが上に書いた、「闇討ち」「不意打ち」「残忍酷薄」の判決の意味です。

3、私たちが最も力を入れて主張した論点(その1)
2で述べたように、判決は私たちに「闇討ち」「不意打ち」する一方で、私たちが最も力を入れて主張した論点をことごとく無視し、だんまりを決め込みました。
その第1が、「団体名義の口座開設の自由」こそ憲法が保障する市民の「結社の自由」を財政管理面から保障する極めて重要な権利であるという点です。この「団体名義の口座開設の自由」の憲法的秩序について、裁判所の見解を問うたのがこの裁判の最大の法律問題でした。
しかし、判決は、私たちが最も力を入れて主張したこの論点について、一言も応答しないで無視しました。
もともと紛争というのは紛争の両当事者にとっての権利・利益が衝突する場合であり、裁判とは両者の衝突を適正に調整・判断することです。本件であれば、私たち市民団体の「結社の自由」の保障とゆうちょ銀行の「営業の自由」の保障との衝突です。そして、結社の自由という精神的自由と営業の自由という経済的自由が衝突する場合には、精神的自由を優先的に考えてその衝突を調整するということが憲法解釈の基本として確立しています。そのため、判決は私たち市民団体の「結社の自由」という論点を取り上げると、必然的に、この憲法解釈の基本問題に触れざるを得なくなるから、「結社の自由」を無視して、だんまりを決め込んだ。

4、 私たちが最も力を入れて主張した論点(その2)
その第2が、「私権の社会性」という論点でした。つまり、私たちは、民法が第1条に掲げている民法の基本原理として「私権の社会性」を強調しました(以下の第1条)。つまり、もはやフランス革命当時の「契約自由の原則」は今日、「私権の社会性」のもとで抜本的な修正を受けたということです。
(基本原則)
第一条 私権は、公共の福祉に適合しなければならない。
2 権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。
3 権利の濫用は、これを許さない。

本件の法解釈も「私権の社会性」という基本原理から出発して行わなければならない、私たちはそう主張しました。しかし、この根本的な主張に対しても、判決はこれに一言も応答せず、無視して、だんまりを決め込んだ。

5、私たちが最も力を入れて主張した論点(その3)
その第3が、法律解釈の大原則をめぐってでした。つまり、法律の解釈は法文上の文言によって決まるという概念法学の考え方は19世紀の遺産であり、20世紀以降、法律の解釈は「現実の社会生活への奉仕」(イェーリング)という法律独自の立場から決定されるものとされました。この法律独自の立場・目的に照らして、或る時には文言を縮小または拡大して解釈し、また或る時には法律の立法趣旨からまたは論理体系との整合性を考慮して解釈することになります。従って、銀行法の文言だけで、特段の正当な理由なしに振替口座の開設を拒否できるか否かを決定することはできないのです。この問題について、私たちは法律独自の立場・目的に即して銀行法の解釈を実践しました。それが、民法上の契約関係を社会国家的原理に基づいて解釈を引き出した訴状6~7頁の主張です。

しかし、判決は、もっぱら銀行法等の条文の文言だけで法律を解釈していいんだ、民営化によって適用されるに至った銀行法には「正当な理由がない限り、開設を拒否できない」という文言がないから自由に拒否できるとだけのべ、これに対する私たちの上記の法律解釈の根本的な主張については一言も応答せず、無視して、だんまりを決め込んだ。

そして、判決は、ゆうちょ銀行は民営化されたんだから、民営化前のような「契約自由に対する規制」はなくなった、契約自由の原則を謳歌していいと大なたを振るいました。
ところが、実は民営化前に適用された「郵便為替法」にも、現在適用される「銀行法」と同様、「正当な理由がない限り、開設を拒否できない」という文言はなかったのです。にもかかわらず、「郵便為替法」の解釈として、「正当な理由がない限り、開設を拒否できない」という解釈を採っていた。だったら、どうして「銀行法」も同様に解釈しないのか。この不都合な真実に対して、判決は目をつぶり、無視して、だんまりを決め込んだ。

6、まとめ
要するに、判決は自分に不都合な主張はすべてダンマリを決め込んで、無視したのです。そして、ゆうちょ銀行に、彼らすら困惑するようなすべての個人、すべての法人の申込みすら自由に拒否してもよいという大盤振る舞いの、市民に対する徹底した隷属への道を開いたのです。

これは歴史に残る悪代官の判決と言われても仕方ないものです。
私たちがこれに屈従することは歴史にもうひとつの汚点を残すことになります。
人権の原点は「抵抗」にある。その教えに従って、翌日、東京高裁に控訴しました(以下の控訴状参照)。
新たな舞台で、今度こそ、
民営化が国家の市場への積極的な介入を戒めるものであっても、経済的弱者(市民)の正当な擁護の放棄まで意味するものでは決してないことを明らかにし、200年以上前の
「第三身分(市民)とは何か。すべてである。今日まで何であったか。無である。何を要求するのか。それ相当のものに。」
の標語を再び追求し、経済的弱者(市民)の正当な人権(ここでは結社の自由)の回復を目指す積りです


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