昨日の第2回弁論の少し前に提出された被告ゆうちょ銀行の準備書面(1)(>PDF)。それを一読した者が抱く感想は、かつて一世を風靡した「アッと驚くタメゴロー」だ。
何がそんなに驚きなのか。
第1に、ゆうちょ銀行の口座開設を希望する者が申込みをしてきても、ゆうちょ銀行には契約自由の1つである「誰と契約するかを選択する」自由がある。だから、いくら口座を開設したいと申し込みがあってもゆうちょ銀行が「オレこいつとしたくない」と思ったら開設しない自由を行使できると。
民営化前からの実績を踏まえて、これだけバリバリの社会的、公共的性格を帯びているゆうちょ銀行の口座開設について、自分たちがまるで200年以上前のフランス革命直後の「契約自由の原則」万能の時代に生きているかのように錯覚して、申込みを自由に拒否できると考えているのではないか。それは弱肉強食の論理だ。時代錯誤もはなはだしい。
第2に、とはいっても、「契約締結の相手方選択」について万能の自由があると正面切って主張し抜くのはさすがに気が引けるらしく、そのあと、でも、自分たちは自社で設定した審査基準に従って、審査して開設の可否を判断していると第1の主張を軌道修正する修正路線を言い出した。
だとしたら、この裁判の残された課題は、その審査基準とやらを法廷の前に示して貰って、本件で原告の申込みがこの審査基準に照らし、どこがどうおかしいのか、きっちり吟味するだけのことになる。
しかし、この肝心要の検証はできないと言う。なぜなら、審査基準を示すと、今度はその審査基準を悪用(潜脱)して、これをかいくぐって申込みをする不逞の輩が出てくるからだと!
その結果、原告は、被告が「総合的な判断によるものである」という説明で口座開設拒否を甘んじるしかなく、それ以上、被告の設定した審査基準について弁明する機会はついに与えられないまま一件落着となってもしょうがないと。
つまり、ゆうちょ銀行は、民営化前の国家機関の時とは異なり、民間の株式会社となったのだから、口座開設拒否の理由についていちいち説明する責任なぞないのだと。
しかし、さすが「弱肉強食の世界に君臨する強者」にふさわしく、ゆうちょ銀行は不利益を受ける弱者=市民の側のことが何一つ、全く考えられていない。
そして、ゆうちょ銀行のロジックを突き詰めると、たとえ市民がどんな不利益な扱いを受ける場合であっても、その不利益を受ける判断基準となるものを予め、そして事後的にも示す必要はないことになる。例えば、市民が犯罪を犯したという理由で刑罰という不利益処分を課される場合でも、いかなる基準で処罰されるのか、これを罰せられる市民に事前にも事後にも示す必要がなく、精々「総合的な判断によるものである」という説明で十分である。その結果、
君を「総合的な判断により」死刑とすると言われても、それを甘んじて受けるしかなくなる。このやり方だったら、袴田さんはあっという間に処刑されてしまっただろう。
このやり方が甚大な人権侵害をもたらすという過去の深刻な経験から、人類は、人を処罰という不利益処分をする場合には、予め判断基準を示す必要があるという原則が打ち立てた。それが「罪刑法定主義」。そしたら、その結果、その処罰基準を悪用(潜脱)して、これをかいくぐって犯罪に手を染める不逞の輩が出てくる。これは不可避だ。だが、それにもかかわらず、人類はこの原則を引っ込めなかった。なぜなら、この悪用する輩に対しては彼らと闘うだけのことであって、だからといって、処罰基準を引っ込めて、訳も分からないうちに処罰されてしまうことはその濫用による人権侵害があまりに憂慮されたからである。
こうして、市民に不利益な扱いをする場合には判断基準の設定・公表すること。この原則の拡充がその後の人権の進化の歴史となった。
だとしたら、国家組織がたんに民営化されたというその瞬間から、この人権保障の原則が雲散霧消してなくなるということが、市民の人権保障の観点からどうして正当化できるのだろうか。
結局、ゆうちょ銀行のロジックは「強欲資本主義」の流行に乗って、単に、自分たちが好きなようにやりたい放題やるというウルトラ自己中心主義以外の何物でもない。この意味で、ゆうちょ銀行のこれらの主張は人権侵害の最前線にふさわしいおそるべき主張、それゆえ、市民としては徹底して抗うに値する重要な主張である。
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